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2012年10月31日 (水)

被災地支援ツアールポ

今月27、28の両日、岩手県の沿岸部を訪れた。機関誌用に書いた記事を一部修正し、自分の記録として残しておくことにする。

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東日本大震災で津波の被害に遭った岩手県の沿岸部は、今なお、がれきが山と積まれ、復興は遅々として進んでいなかった。一方で、大船渡市や陸前高田市では、複数の飲食店が入居するプレハブの屋台村ができたり、仮設住宅入居者の中には、高台に新居を建て、新たな「故郷」を求める動きも出始めている。10月27、28日に岩手日報労組が主催した被災地復興支援ツアーに、中国地連を代表し参加した。

ツアーは、北はデーリー東北労組から南は長崎新聞労組まで約20人が参加した。広島から盛岡まで新幹線を乗り継ぎ約7時間。盛岡から、岩手日報労組に用意してもらった車に乗り、2時間以上かけ、陸前高田を経由し大船渡に向かった。盛岡市内は津波の影響はなく、地震の爪あともほとんど残っていない。「車で2時間」は沿岸部在住者にとっては遠くない距離だが、盛岡在住者には心理的に距離を感じる人もいるそうで、同じ県内でも、被災地に対する思いには濃淡があるのだという。

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陸前高田で、市役所庁舎跡地を訪れた。この季節の岩手は、午後5時を過ぎるととっぷりと日が落ちる。市役所があった周囲は、いくつかの鉄骨の建物は残っているが、ほとんどすべてが流され、人の気配は全くない。街灯がなく、あるのは暗闇と静寂。かつて写真で見た被爆直後の広島市を思わせる光景が、そこにはあった。1年ぶりの訪問だったが、見た目には復興が進んでいる様子は全くうかがえない。

市役所庁舎は外観は残っているが、窓が割れ、庁舎内をのぞくと、訪問者用の車いすや事務用品がそのまま転がっていた。正面玄関には花や折り鶴が置かれ、慰霊の場になっている。年内に建物は取り壊され、別の場所に慰霊施設が建設される予定。「地元には、市役所の建物を残してほしいという声もある。どういう施設がふさわしいのか、難しい」と地元のフリーライター。以前は飲食店に勤めていたが、震災で店を失った後、ライターとして取材し、地元の情報を発信している。

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夜、宿泊先の大船渡に場所を移し、屋台村を訪れた。「大船渡屋台村」の看板が掲げられ、多くの飲食店が入居している。少し離れた場所には単独でプレハブのスナック、ビニールハウスの居酒屋もある。外観は味気ないが、中に入ると、お酒を酌み交わしながら、語り合う人々の姿があった。自分が酒好きの飲兵衛だから言うわけではないけれど、たとえ復興の途上であっても、こういう場所は必要だと思う。かつてのいきつけの店が屋台村で営業を再開すれば、きっと自分たちも、と周囲に好影響を与えるはずだ。

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今回のツアーを企画した岩手日報労組前委員長は「不謹慎などと思わず、被災地を訪れ、おいしい海の幸をどんどん食べ、どんどん飲んでほしい」と、消費を通した復興支援を呼びかけた。

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2日目は朝から、高台の仮設住宅を訪問した。大船渡中の校庭にプレハブが並び、現在、約120世帯、300人が生活している。一番の高齢者は100歳。一人暮らしは約20人で、家族構成によって、間取りは3種類用意されている。「永沢仮設」が正式な名前だが、中学校の校庭にあるため、通称「大船渡中仮設」と呼ばれている。震災直後、避難所となった同中の体育館で過ごした人らが、昨年5月15日から入居を始めた。

仮設住宅内で、ボランティアとの橋渡しなど世話役をしている6人に話を聞いた。

仮設には毎日、移動販売車が訪れ、食料や衣類を販売している。震災以前、同じ地域に住んでいた顔見知りがいて、コミュニティがうまくできあがり、雰囲気はいいという。過去にあった大災害後の仮設住宅の教訓が生かされていると感じた。また、以前は顔見知りではなくても、同じ傷を負った者同士ということが、絆を深める要因になっているようだ。一足先に、離れた高台に新居が完成し、引っ越しを控えている一人は「離ればなれになるのが寂しい」と言った。世話役さんは「いつかはみんな仮設住宅を出ていく。イベント情報を連絡し、これからも交流を続ける。12月はみんなで年越しそばかな」と笑う。

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比較的、高齢者の入居者が多く、集会所では仮設内サークル活動などが行われている。平日には民謡、習字、週末にはテレビを囲んでの映画上映。ボランティアがやってくる行事では、整体とコンサートが人気だ。整体は予約を取ると、午前中には埋まってしまう。

部屋はエアコンがあり、冬場対策に壁は二重になった。また、風呂の追いだき機能など、冬場に欠かせない機能も今年から入り、少しずつ、普通の生活らしくなってきた。ただ、隣家と壁一枚で接しているので、テレビの音を出さないようにしたり、周囲に気を使うのはストレスになるという声もある。

新聞、テレビの報道に関しては、良い面、悪い面の両方の意見があった。被災当初、家が流された場所で祈りを捧げているとき、横からテレビカメラ、新聞社のカメラマンがやって来て撮影された。「何をしに来たのだと当初は思った」。けれど、新聞やテレビを見て、遠方の親類が自分の無事を知り、連絡が来ることもあり、報道のありがたさを知ったという。

悪い面では、一つの事象をまるで全体であるかのように報じられることが挙げられる。一例では、企業の物資だけを運ぶ鉄道が復旧した際、大手のメディアに、鉄道が全通したかのように書かれ「現状は全く違うのに」と感じたことがあった。

世話役さんは震災以前、大手紙を購読していた。被災後、しばらく新聞は取っていなかったが「内職でお金が入るようになり」岩手日報の購読を始めた。地元の状況がよく載っていることが理由。岩手日報は震災直後、何ページも使い、生存者名簿の掲載を続けた。整理記者は常に「何がニュースか、何を読者が求めているか」を考えながら紙面を作ってはいる。ただ、見出しもない、レイアウトも必要のない名簿がどれほど重要な情報であるか、真剣に考えたことがなかった。話を聞きながら真の意味の「読者目線」とは何か、地方紙のあるべき姿を勉強させられた。

震災直後、全国から送られた支援物資が、被災者に届かないということがあった。現在も、行政を通しての支援は公平の原則から各仮設住宅に分配されるため、仮に100個みかんを送っても、各仮設住宅に数個ずつという状況も出てくる。世話役さんは「各仮設ごとに、全国の支援者とのつながりができている。ポイントを決めて、接点のできたところに直接送れば、すぐに届き、被災者も支援を実感できる」と話す。

今後、津波被害を受けた沿岸部は、盛り土でかさ上げして整地する計画がある。ただ、10年近くかかるという話もあり、高齢者には待てない状態。また、道路の拡張などのため、個人所有の土地を2割ずつ供出するよう求められている。土地が狭くなるうえ、元の所有地から変わる可能性もあるため、賛同しない住民も多いという。

最後に6人に尋ねた「今欲しいもの、必要なもの」に対する答えは「家族の愛」「安心して住める場所」「元の商売」「住む場所」「新しい家になじむ」「子どもの進学資金」だった。親の代からクリーニング店を営んでいた世話役さんは、再開業のめどは立っていないが、障害者施設でのクリーニング指導の仕事が決まり、技を伝承する場を見つけた。

現地に行くたび、何もできない無力感を覚える。ただ、前委員長が繰り返し訴えているように、被災地の様子を文字で伝え、海の幸を食べ、飲むことがほんの少しでも役に立っているのかもしれないと考えると、一人一人の行動は、微力ではあっても無力ではないのだろう。初めて食べた「サンマの目刺し」は骨まで食べられて、ご飯にもお酒にも合いそうな美味でした。

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