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2012年5月12日 (土)

新聞は時代劇

10、11日、京都で同業者の皆さんと会合があった。初日はNIE(新聞に教育を)に関する学習会(と飲み会)、2日目は松竹の撮影所見学、その後、大阪に移動し、高校・大学で授業・講義を持っている大学時代の先輩と飲み。一見、何の関連性もないことのようだけど、この2日間を通じ「新聞は時代劇である」という結論を得るに至った。以下、だらだらと独り言。

NIEに関しては、学習指導要領の変更だとかで、小中学校の現場で新聞を活用することが決まっている。そして、新聞側は「どういう新聞があれば学習に使いやすいでしょうか」とリサーチし、学校側はそれぞれの思いを意見交換会などで伝えてくれる。

こういう時によくいわれるのが「新聞は難しくて敷居が高い」「解説などの記事をもっと入れてほしい」「取材の苦労話や失敗談など、記者の顔が見えるようなコーナーがほしい」「子どもたちが登場する紙面を増やしてほしい」…

ある面で指摘は正しいと思うし、既に取り入れられている部分もある。ただ、取材の苦労や失敗談を前面に出すのは、時代劇のNGシーンばかりを流して本編をスポイルするのに似ているし、子どもばかりが登場する紙面は、決して紙面の質を向上させるとは思えない。

撮影所では興味深い話を聞いた。時代劇の将来は決して明るいわけじゃないという認識はある。けれど、絶望もしていないという。バラエティの一シーンなど、安手に作る場合は東京で撮影するが、クオリティを求めるときは京都の撮影所に依頼がくるという。

また、時代劇には確実な固定ファンはいるけれど、若者からの支持は確実に減っている。これが続けば、みんなが持っているはずの前提条件から説明が必要になるのでは、という危機感がある。

例えば、劇中で使われるお金。二両金貨が出るとそこそこ大金、越後屋が風呂敷に包まれた金貨を受け取ると、悪い大金。ビタ銭だと少額。時代劇を見る人は、この前提を皆が知っている。二両金貨を出されても「あれって大金? 五百円玉ぐらい?」などという人が増えると、時代劇の中身が伝わらなくなってしまう。

このエピソードは、新聞もよく似ている。年輩の方々は習慣化している人も含め、新聞をよく購読している。新聞のルールをよく知っている。ところが、新聞を読まない若い人は、どこから読み始め、どこに読み進むのかも分からないし、読んでも何が書いてあるのか理解できないという人もいる。見出しの「米」がアメリカを指すことさえ知らない若者も実際にいる。「ネットで見ればニュースは分かるし」と言う人もいるだろう。これに対しては、私たちも大いに危機感を持っている。

ただ、対処方法は、そっぽを向いている人に媚びることではないと思う。現代ドラマの要素をふんだんに取り入れた時代劇が受けるわけではないし、「まるでネットニュース」な新聞を若者が購読するわけではない。時代劇も新聞も、顧客満足度を高めなければと各方面からの要望を聞くあまり、内容が徐々に幼稚になっていくのではなかろうかと、逆の意味で危機感を抱く。

顧客ニーズの話で、よく挙げられるのがソニーのウオークマン。スピーカーもない、ラジオもない、顧客ニーズ調査とまったく逆方向の商品が、時代をつくる大ヒット商品となった。今でも、家電メーカーが「どんな商品がほしいか」を詰め込んだ新商品を出すと、ほとんどの場合、大コケしていると聞く。

私自身、小学校の中学年か、高学年のころから、朝6時に玄関に立ち、配達の人を待って新聞を受け取り、親よりも先に読んでいた。もちろん、当時の私には理解できない表現もたくさんあった。父に尋ねると教えてくれることもあったし、自分で調べなさいと辞書を渡されることもあった。当時、政治家がよく発する言葉で、今も記憶にある一つが「大義名分」。この言葉、30年が過ぎた今でも新聞の内政面では見るが、日常生活で使うことはあまりない。

小学生のころ「もっと新聞がやさしく読みやすかったらいいのに」と感じたことは一度もなかった。難しいことを知ろうとしたら、多少は困難を伴うものだ。読み続けていれば、そのうち分かるようになる。小学生時代の私でもどうにか新聞を読んでいたのだから、今の小学生にもできるはず。それでも理解できない人ばかりというのなら、学力レベルが落ちてしまっているのだろう。

教職をしている大学時代の先輩は、こう言った。学力の平均を保とうとすれば、平均より少し上を照準に教えなければならない。平均を教えれば、必ず平均が下がっていく、と。新聞をやさしく「変革」していくのは、教えるレベルを平均より下げることに似ているのでは。

学校での勉強も、新聞を読むことも「知的好奇心」を満たしてくれる。大学の先輩はよく「おもしろければいい」という言葉を使う。これは不真面目に生きていくという意味ではない。学術本を読んで知識を得ることも、小説を読んでその表現方法に感嘆するのも、クラシック音楽を聴くことも、時代劇を観てほっとするのも、すべて「おもしろい」こと。

学者の方々が小難しそうな研究を続けているのも恐らく、それがおもしろいから。私が小学生から新聞を読んでいたのも、新聞を読めば学校の試験に出るとか、学校から指導されているとか、そんなことはまったくなく、ただ、読むのがおもしろかった。いろんなことを知るのが楽しかった。

学校では、ものを知ることが「いかにおもしろいか」をもっともっと教えてくれればいいと思う。すべてのことを点数化し、点数が良い人が「できる人」というのはどうかと。ひょっとして、「できる子」のまま、いい大学を出て、いい会社に入って、仕事をしていても、何がおもしろいか分からないままの人もいるんじゃないかしら。

段々、話が逸れてきた。

つまり。新聞も時代劇も、おもしろい(私にとっては)。ただ、普段から触れている人の数が減ってきた。さあ、どうしよう。対策をどうするか。う~む、新聞を読むのがおもしろいと思っている私に、おもしろくないと思う人の理由が分かるわけないじゃん。例えるなら、いつも2ちゃんねるを見ている人に対し「年輩者の2ちゃんねる離れをどう克服するか」と問いかけるのと同じ。「そんなん、知らねーよ」という答えが返ってくるはずだ。

新聞も時代劇も、変革が必要な部分はもちろんあるはず。ただ、その方向が読者・視聴者に媚びた挙げ句、衰退していくのでは忍びない。作り手として、おもしろいと自信をもって作り続け、それでも世の中から不要なメディアだと判断されたら、その時は腹をくくりましょう。まだまだ、もがくぜ。

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